というよりはノンフィクションじゃ書けなかった事を、「これは小説だから。」と言い訳をして、出版した本なのだろう。小説としてのつまらなさとして、例えば、台詞が異常に説明臭かったり、筋が単調でつまらなかったりする。(後、女性と外人の表現の仕方が恐ろしく変だ。女性の価値を表現する言葉で処女みたいにとかいう表現を久しぶりに読んだ。)
だから、この本は、小説電通というタイトルとは逆にノンフィクションとして読むべきだ。最初の100ページくらいを読むと、筆者が訴えたかった電通の問題というのはほとんどわかる。しかし、この本が81年に出版されたものであるという古さと、小説という形式がネックになっている。
確かに二十年前にこの本が出るころには価値があったのだろう。しかし、二十年の時を経て、再販する意味がまったくわからない。やるなら、完全にノンフィクションとして中身も最新の情報に更新してやってほしかった。もしかしたら、それを許さないくらいに「電通」の力が強いという事なのかもしれないけれど。
中尾浩介=筆者であることは、明白の事実であるので、フィクションですと書いてあるが、さいたま市民やその関係者には、特に合併問題に関わっていた人には、自分のことのように読める非常に貴重な本ではないだろうか。さらにいえば、合併反対の住民投票の請求が事前につぶされたりしているところを見て、こういう技があるのかと感心する、自治体関係者も少なくないだろう。
それほどまでに、合併の内幕が詳細に描かれており、この本を参考に合併を勧めている自治体担当者がいてもおかしくないといえる???ではないか。
隠れた名著とはこの本をさすに違いない。 担当者でなければ書けない舞台裏 これは、小説である。最初にフィクションであり、実在の人物、団体とは一切関係ありません、と書いてある。しかし、これは著者が7年間担当した浦和市、大宮市、与野市の合併の裏話であろう。
合併推進という国の方針のもと、市理事者、議員、市民との関係の中で、何のための合併、誰のための地方自治なのかを自問自答しながら苦闘する自治体職員の姿が活写されている。